2018.9.27

『オニ文化コラム』Vol,42

 
山崎 敬子
コラムニスト
玉川大学芸術学部講師

秋になりました。秋は「文化の秋」とも言いますので、鬼の芸能論についてご紹介します。
 
能楽の理論書『風姿花伝』(世阿弥・著、15世紀)にこの様な記述があります。
 
「これ、ことさら大和のものなり。一大事なり。およそ、怨霊・憑物などの鬼は、面白き便りあれば、やすし。あひしらひを目がけて、細かに足・手をつかひて、物頭を本にしてはたらけば、面白き便りあり。まことの冥途の鬼、よく学べば恐ろしきあひだ、面白き所、更になし。まことは、あまりの大事のわざなれば、これを面白くする者、稀なるか。まづ、本意は、強く恐ろしかるべし。強きと恐ろしきは、面白き心には変はれり。」
 
現代語に約しますと「これは、大和申楽が最も得意とする芸で、最も難しい物まねだ。だいたい、怨みを抱えた怨霊や憑物などの鬼の演技は、面白く演じる手がかりがあるので容易だ。相手役に向かって、細かに足踏みと身振りをして、頭にいただいたかぶり物の種類に応じて動作をすれば、それが面白く演じる手がかりとなる。本当の地獄の鬼は、そっくりまねると恐ろしいものだから、見世物としては全く面白くない。本当は、あまりに難しい芸なので、これを面白く演じることができる役者は少ないのだ。まず、地獄の鬼の本質は、強く恐ろしいものだとするべきだ。強さと恐ろしさというのは面白さとは異なるものだ」という内容です。
 
怖いだけでは芸能として意味が無い。面白さも兼ね備えよ、と。ここを強調したかったらしく、続けて「そもそも鬼の物まね、大きなる大事あり。よくせんにつけて、面白かるまじき道理あり。恐ろしき所、本意なり。恐ろしき心と面白きとは、黒白の違ひなり。されば、鬼の面白き所あらん為手は、極めたる上手とも申すべきかとあります。やはり「そもそも鬼の物まねは大変難しい」のです。上手に演じようとすればするほど、面白くないのです。鬼は恐ろしいのが本質。恐ろしさと面白さとは正反対の違いがあるので、その鬼が面白く演じられるような役者は、この道を極めた上手と言えるだろう、と。
 
民俗芸能の中に登場する鬼たちも、恐ろしさの中にどこか滑稽さを兼ね備えております。芸能の鬼と「鬼」本体…似て非なる存在ですね。

山崎 敬子 / Yamazaki keiko

玉川大学 芸術学部講師
早稲田大学メディア文化研究所 招聘研究員
小田原のまちづくり会社「合同会社まち元気小田原」業務推進課長


民俗芸能しいては日本文化の活性を目指し中心市街地活性化事業に取り組んでいる。
元広告業界専門新聞編集長であったことから日本ペンクラブに所属。
現在、広報委員・獄中作家委員などに名を連ね活動している。
(社)鬼ごっこ協会会報などでコラムを担当
所属学会:民俗芸能学会・藝能学会・日本民俗芸能協会ほか