2019.11.26

『オニ文化コラム』Vol,56

 
山崎 敬子
コラムニスト
玉川大学芸術学部講師

 
 
11月は陰暦では「霜月」。そろそろ来年の事も考え出す時期かと思いますので、今年と来年の境目「大晦日」に関わる鬼のお話を。
 
かつて、旧暦の大晦日に宮中では年中行事「追儺(ついな)」が行われていました。鬼(疫鬼や疫神)を払う行事でしたが、後にこれが民間にも伝わり、現在の節分(豆まき)行事に変容してまいります。ウィキペディアには「中国で宮中で行われる辟邪の行事として、新年(立春)の前日である大晦日に行われていた。日本でも大陸文化が採り入れられた過程で宮中で行われるようになり、年中行事として定められていった。儺人(なじん)たちと、方相氏(ほうそうし)、それに従う侲子(しんし)たちが行事を執り行う。儺という字は「はらう」という意味があり、方相氏は大儺(たいな、おおな)、侲子は小儺(しょうな、こな)とも称され疫鬼を払う存在とされている」と解説されています。そして、日本の民俗芸能には鬼が登場しますが、その多くは民間における節分や神社・寺院における節分祭や追儺式です。
 
その追儺(ついな)。いつ頃日本に伝来してきたのでしょうか。歴史書に初めて登場するのは、平安時代初期(8世紀)に成立した国史『続日本紀』。慶雲3年(706年)12月晦日の紀事に「是年、天下諸国疫疾、百姓多死、始作二土牛一大儺」とあるのが初出です。大雑把に現代語訳すると「この年、諸国で疫病が流行って多くの百姓が亡くなったので、初めて土牛(土偶人)をつくり追儺をしましたよ」という・・・要するには疫鬼払いをしたよ、という内容です。ちなみに土牛・土偶人を門に立てること自体は、中国の『礼記(らいき)』(前漢時代(紀元前3世紀)成立か)に登場します。一方の大儺は門(外)ではなく、宮中で行われた行事「追儺」を意味します。
 
文献上では平安時代に登場する宮中行事「追儺」は、鎌倉時代以降になると行事自体は衰微していきますが、「追儺」という言葉は民間にも伝わり、現在では、鬼を追い払う節分の行事全般の呼称として、節分の豆まきを称する言葉として定着しました。鬼を払うルーツを辿ると国史『続日本紀』にまで遡れるのが、これまた伝統を大事にする日本らしいですね。
 

山崎 敬子 / Yamazaki keiko

玉川大学 芸術学部講師
早稲田大学メディア文化研究所 招聘研究員
小田原のまちづくり会社「合同会社まち元気小田原」業務推進課長


民俗芸能しいては日本文化の活性を目指し中心市街地活性化事業に取り組んでいる。
元広告業界専門新聞編集長であったことから日本ペンクラブに所属。
現在、広報委員・獄中作家委員などに名を連ね活動している。
(社)鬼ごっこ協会会報などでコラムを担当
所属学会:民俗芸能学会・藝能学会・日本民俗芸能協会ほか